「学校のモンスター」
諏訪哲二著、中公新書ラクレ、中央公論新社刊、2007年10月
僕は一応、親でして、そんでもって分不相応にもPTA関係などにも関わっているものですから、このような本を読みます。
読んでみて、驚きました。この本に書かれている「彼ら」とは誰なのか?見えたような気がします。それは、「児童」を指しているのではないのだと感じました。
読んでいる途中から、「学校のモンスター」というタイトルは、もしかしたら、浦沢直樹著「モンスター」に掛けているのではないか?と思うようになりました。
「はじめに」に相当するところに、「若い人たちへ」という章があります。そして、「おわりに」に相当するところに、「大人の世代へ おわりに代えて」があります。
著者が語り掛けたい相手は、ある特定の世代でありませんでした。ある特定の職種の人々ではありませんでした。おそらく、今を生きる全ての日本人に語り掛けたかったのではないでしょうか。
ぼくは、学校教育の問題をケーススタディとした哲学書という感じがしました。
著者の諏訪さんは1941年生まれだそうです。ということは、昭和16年生まれです。諏訪さんの個人的体験では、生徒の感覚が変わったと感じたのは、教職について間もない頃だったそうです。では、そのときの生徒たちは誰だったのか、というと、団塊の世代と呼ばれる人々です。
諏訪さんの個人的な体感が、普遍的な認識といえるものであるとしたなら、今現在、学校で生じている諸問題は相当に根深いのかもしれない。と、思いました。なぜなら、団塊の世代と言われる方々は、おじいさんやおばあさんとなり孫を授かるようになってきているからです。
諏訪さんが書かれていることを頼りにコトの問題解決を図ろうとするならば、高度成長期を支えた世代やそれ以前の世代が行ってきてしまったことの検証から始めるべきなのかもしれません。
この本で、昔何度も聞いた言葉を目にしました。「シニフィエ」と「シニフィアン」です。諏訪さんは、「シニフィエ」を「言ったと思っていること」と書きます。そして、「シニフィアン」を「言ってしまっていること(相手に伝わっていること)」と書きます。
シニフィエとシニフィアンが必ずしも一致しない。ということを理解する人と、理解できない人がいるのだろう。ということを、改めて感じました。だから、大人もキレる。
長くなって恐縮ですが、諏訪さんはもっと凄いことちゃんと書きます。「もう近代なんて、とっくに終わっているんだ」ということを。「ポストモダン」な時代に生きているのだということを。
ポストモダンは何か?という話ではなく、「もう近代なんて終わっている」という認識を持てないことが問題なのだ、と言うことです。
諏訪さんも書かれていますが、「近代化された自我」なんてものを獲得するならば、そこには今までにない地平が広がっているはずです。それは、おそらく文字通りの「FREE」な荒野なのではないかと、思いました。
近代的自我を獲得することが教育ならば、「昔はよかった、、、」などと言ってはいけないなずだろうと、思います。「昔」とは異なる価値観をガンガンに身につけさせておきながら、そして、自分自身も身につける努力をしておきながら、地域や地縁に頼るというのでは矛盾を孕むのも当然なのかもしれません。
近年、「まちづくり」の視点で地縁の大切さが言われます。安心・安全のまちづくり、とか防犯の観点から、重要視されていると感じます。
もし、地縁的なものが復活、あるいは再生、もしくは新しく構築されるならば、それは、かつての地縁的なものとは完全に異なるものなのだと思ったほうが善いのでしょう。
勘違いしたまま町会や親子会に関わってはいけないと、ぼくは自分に強く言い聞かせなければなりません。なぜなら、街に生きていくことを決意すると、そのような役割を担うよう話が来るからです。
posted by KAZZ Satoh at 11:50|
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