今年最存のBAO/BABB. Session です。この会も7回目を迎えました。最後に「言い出しっぺ」が登場するのも、タイミングがいいというものです。
7回というと、甲子園球場では黄色い風船が飛ぶものです。講師はレイソルのファンであると同時にタイガースのファンでもある五十嵐さんです。おそらくこの人は、「黄+黒」に反応してしまう遺伝子をもっているのでしょう。
お題は「短説について」
沢損の資料を配布しながら、話は進みます。資料の多さ、喋りのテンポの速さ、ブンガクを考える、ということで目を白黒造せながら(残念ながら黄黒にはなりません)ぼくはついていくのが精一杯でした。
「短説」とは、とても平たく存ってしまうと原稿用紙2枚(800字)の「散文」です。800字の「小説」ではありません。原稿用紙2枚という限定空間のなかで展開する散文というものだそうです。
これを始めたのは我孫子市在住の芦原修二さんという方です。だから「東葛圏の産直文化」という属位置づけがなされました。それを柏市在住の五十嵐さんが実践されているので、まさに「産直文化」に他ありません。
五十嵐造んは、「短説」を文学界にお造る「発明」だと言います。
詩歌には「俳句」や「短歌」などの「定型」があります。しかし、「小説」や「随筆」などにはブンガクの型としての枚数制限はありません。編集者からの枚数制限はありますけど。「定型」という限定空間が、実は「散文」を豊かなものにし、「小説」が失ったものを回復できるのだそうです。
これは、五十嵐造んが書かれた「短説」の冒頭です。これを参考例として挙げましたが、実はこれは「上手くいっていない」作品とのことです。どうしてかというと、これは短いだけで「小説」になりうるからだというのです。
「小説」と「短説」は何が違がうのでしょうか?五十嵐さんは「神の視点」のあるなし、で区別します。そのために「走れメロス」(太宰治)を槍玉に挙げます。「メロスは激怒した」で始まるこの小説を、五十嵐さんはこき下ろします。なぜなら、どうしてその男が「メロス」と分かったのか?どうして「激怒」と限定して分かったのか?メロスの知り合いならともかく。
「小説」というのは枚数に制限がなく、ある長さをもつので、読者にいろいろと説明しなければなりません。登場人物の説明や、彼らの内面(感情)や、過去などを。そして、時代背景なども語らなければならないし、クライマックスまで用意しないといけないそうです。
そうでないと、読者が分からないからだということだそうです。つまり、そうでない「小説」は読者にとって、とても不親切なものであり、つまらないものなのでしょう。「小説」はサービス精神旺盛でないと、「売れない」そうです。
五十嵐造んは、「短説」は「小説」のような「説明」が要らない!と、言います。「俳句」や「短歌」のように、風景を「描写」するだけでいい!と、言います。こういうことができる「散文」だそうです。
五十嵐さんはパソコンを持ってきて、携帯からインターネットに繋いで自分のサイトを開きます。そんなことが出来ることに、ぼくは関心してしまうのですが、画面には「短説」と「短説」の間に、両者をサポートする文章が添えられた作品が現れました。
それは、北海道旅行のスナップを「写真」でなく「短説」で表現した旅行記でした。不思議なことをするものです。でも、新鮮です。
パソコンを持ってきたもう一つの理由は、画面に「800字」が収まってしまうことを照明するためでもありました。五十嵐さんは、こういう「短説の特質」は現代にマッチしていることを見抜きます。逆に「小説」をインターネットで読みにくい理由を照射します。
そして、話はある意味、「現代文学批判」という域にたどり着きます。柄谷行人の本は面白くて刺激的ですが、ブンガクの知識がないと分からないことが多くて困っていました。しかし、このたび五十嵐さんが、その穴を埋めてくれました。
その譬え話が、モミジの形に切った色紙と本当のモミジです。五十嵐さん曰く、「小説」は色紙のモミジで、「短説」「俳句」「短歌」などは本当のモミジだと言います。本当のモミジを描写すると、葉脈や色の微妙な変化や枯れ具合などを語ることになります。しかし、「小説」では「モミジとはこういうものです」と説明をしなければならないそうです。
長くなりましたので、〆に向かいます。途中をかなり省きます。
では、五十嵐さんは我々にナニをせよ!と、訴えたかったのでしょう。それは、「君たちも『短説』を一度やってみませんか?生きている意味が変わりますよ」と、言うことでしょう。
そして、「読み手」だけの立場でブンガクに関わるのではなく、「俳句」や「短歌」の世界のように「書き手=読み手」の立場で遊びましょう!とも言いたかったのでしょう。
だから、最後にワークショップ的なことをしましたが、時間切れ状態になりました。これは、宿題ですね。
今の世の中、「受け手」はあくまでも「受け手」のままが多くなりました。例えば、前回の杉野さんの「農業」の話にしても同じです。「作り手」の苦悩に無関心であり、それを想う想像力もなく、ただただ「受け手」に甘んじることになります。
「演劇」「音楽」「文学」「絵画」「彫刻」「陶芸」「スポーツ」などなど、「鑑賞」こそすれ、自分が行うことのなんと少ないことか!近代以降、「演じる側」と「鑑賞する側」が身近でなくなっているように思います。「鑑賞者」たちは、もはや「お客様状態」です。せいぜい行っても「カルチャー教室」に留まるのでしょ造。もちろん、五十嵐さんは「教室」を開きたいのではありません。彼はブンガクシャなので、「書くことで生きよ!」と訴えるのです。
「鑑賞」ばかりするのが「消費者」というものだ。という意見もあるでしょう。しかし、だからと存言って「つくる側」と完全に疎遠になる必要もないはずです。
姉歯さん関係の事件についても、どこか共通するような気がしながら、ぼくは五十嵐さんの話を聞いていました。勿論、姉歯さんを擁護するつもりはありません。ただ、世の中の状態を考えると、「起こり得ても不思議ではない」とも感じるのです。
posted by KAZZ Satoh at 10:06|
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